☆上野貴子の俳句でおしゃべり☆彡 【晩秋から初冬へ!?!】NBSAcademy便り

おはようございます。
俳句作家の上野貴子です。
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もうすぐ12月です。
12月が来るとすぐにクリスマス。
町中がサンタクロースの夢を見る
そんな素敵な季節ですね。
東京では銀杏が色づき
はらはらと舞い落ちる
黄葉且つ散るのがこの時期です。
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俳句では、「黄葉且つ散る」は秋の季語ですが
年々夏が長く秋が短くて
都内では冬が紅葉シーズンですね。
真っ赤に色づくもみじが
晴れた空に色鮮やかに見えます。
けれどもこのところの
温暖化の影響なのでしょうか?
遅い秋には枯色が混じります。
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枯色、鈍色、褪色、というような
冬の木の葉の色が
晩秋の紅葉に混じりさまざまな色合いを
かもしだしています。
そこへ色を変えない松の木のような
緑色も混じり錦織りなす美しさです。
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東京ではもみじよりも
銀杏が美しく
黄色い並木道が良く見られますね。
街路樹が黄色く色づくと
もう北風が吹きだしてきます。
そして、木枯しが吹き始めると
銀杏の葉も散り始めます。
自然のサイクルの不思議さですね。
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晩秋の東京には
朝晩の冷たい風が吹き始めて
やはり冬を感じます。
晩秋から初冬には
町中が模様替えをして
色鮮やかに燃え上がるようです。
暖かな家の灯りが
何よりのコロナ禍の冬が
またやってきますね。
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それでは、2000年から2010年までの
10年間をまとめました俳句日記から
今日は2005年9月の俳句をご鑑賞ください。
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【2005年9月の俳句抜粋】

9月 1日 木曜日 晴(二百十日) 七草のひとつの花の色忘れ 9月 2日 金曜日 晴 藤袴空き地へ抜ける垣の蔭 9月 4日 日曜日 晴 秋草の小道を走るサイクリング 9月 5日 月曜日 曇 秋の蝉背に降りしきる山の寺 9月 8日 木曜日 晴 萩白く涙こらへし朝の色 9月 9日 金曜日 晴 草の丈越ゆる桔梗の弾け咲く 9月14日 水曜日 晴 移り行く刻の満ち欠け夕月夜 9月20日 火曜日 曇 下宿屋の階段の下白粉花 9月28日 水曜日 曇 ポッケより去年の木の実落つるかな 9月29日 木曜日 晴 ゐのこづち踏み入る裏の駐車場     ・     ・ ★ショートポエムコレクション https://shortpoemcollection.jimdofree.com/ ★俳句記念日 https://haikukinennbi.jimdofree.com/ ★「おしゃべりHAIKUの会」句会情報 https://nbsacademy.jimdofree.com/%E5%8F%A5%E4%BC%9A%E6%83%85%E5%A0%B1/ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ワクワクドキドキのライブ配信の楽しさはこちらの「俳句TV」再放送からご覧ください。 ★俳句TV「エンジョイ俳句ライフ」 https://www.facebook.com/haikutv/ 新型コロナウイルスについての情報 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000164708_00001.html

 

2021年11月28日 | カテゴリー : 俳句, 講座 | タグ : | 投稿者 : 志水めぐみ

俳句575第七回「切れ字って何」勉強会

俳句575第七回「切れ字って何」勉強会

~~~角川「俳句」7月号~「切れ」の正体~参考~~~~

 

今年の角川「俳句」七月号に「切れ」の正体という大特集がありました。読み応えがあり面白い内容だったので参考資料に挙げたいと考えます。

 

この特集の中で正岡子規は「切字など論ずるは愚の至り」「切字とは文法上の語にあらで、意味の切るる処をいふ」といい特に論じていないとあります。又、「や」はゆるみ易いとも述べています。けれども実作の現場では、有季定型と同じく歴史的な慣習としてとらえ多くの俳人に使われています。

 

この特集では切れの反則として、良くない例と言われている切れの使い方を、逆に効果的に使った名句を上げています。

 

例えば「目に青葉山郭公初鰹・・・素堂」この句は三段切れと言われる反則です。「青葉」「山郭公」「初鰹」季語も三つある季重りですね。名詞による三段切れで、逆にリズムが良く視覚、聴覚、味覚に訴えかけて躍動感に満ち溢れています。

 

その他に「降る雪や明治は遠くなりにけり・・・草田男」この句があります。「や」と「けり」の切字を二つ重ねて使っていますね。この句は草田男の代表的な名句でもあり、暗唱されるほどの句ですが、それでも切れ字が2つ使われています。この句も反則ですが効果をもたらしています。

 

これまで参考としてきた奥の細道では「あらたうと青葉若葉の日の光・・・芭蕉」この句は切れ字のない句ながら名句として有名な句ですが、「なんと尊いことだろうか青葉も若葉も日の光に輝いていることだ」という解釈となります。日光東照宮の句ですね。中七の緑の木々の葉の濃淡を季重りでありながら、一つの表現で「青葉若葉」と言っている。そこが反則ですが斬新な名句です。

 

このように「切れ字」のあるなしはもはや句のリズムを整えたり内容を推敲したりする際にはあまり関係ないと言って良いと考えます。芭蕉の昔から子規に至るまで、すでにこの慣習的な俳句の実作のコツは、やはり必要がないと言っても過言では無いくらいです。

 

実際に作句に当たる場合にも、語調を整えるために良いと言われたり、品格を感じると言うような表現を良くされますが、たった十七文字の世界でそう言えるのかどうかは疑問に感じます。レトリック的な技法で古典的なリズムを作り出してしまうだけに陥り易いです。

 

今回は、芭蕉の句と同様に俳句の基本と言われる有季定型が写生句と同じような俳句の構想の根底にあるとして考えても、むしろそのような基本型であっても「切れ字」は必要が無いと考えて良いです。そうした冒険を試みた句にこそ名句が生まれる場合が多いと言って良いと思いました。

 

「切れ字」こそ現代の俳句が古典化する一つの要因ではないかと私は考えます。現代俳句ではこうした「切れ字」に対するこだわりはすでに感じられませんが、実作の現場では、まだまだ慣習的にあるものとして指導されていることが多く見受けられます。これは残念なことです。もっとたった十七文字の世界に生きた作者の内面を詠み込むことへの努力が必要とされるべきだと私は考えます。